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熊野三山の成立まで

『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成の詳細は不明。熊野那智大社は熊野三山の中でも熊野坐神社(本宮)・熊野速玉大社(新宮)の二社とは異なり、山中の那智滝を神聖視する原始信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後である。一説には、那智山の奥にある妙法山に登るための禊祓の地だった那智滝が聖地化し、夫須美神が勧請されて当社が滝本で創建されたともいう。

806年(大同元年)の『新抄格勅符抄』には766年(天平神護2年)熊野速玉男神(新宮の主神)とともに熊野牟須美神の記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。しかし、その後は貞観元年1月27日(859年3月9日)、同年5月28日(7月26日)、貞観5年3月2日(863年3月28日)の速玉神と坐神(本宮の主神)が従五位上に昇階した事に関する『日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。927年(延長5年)延喜式神名帳の牟婁郡6座中にも熊野速玉神社、熊野坐神社の二社のみが書かれている。

一方、984年(永観2年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮・新宮と併せて熊野三山とする記述は永保3年9月4日(1083年10月23日)の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早く、これまでには三山共通の三所権現を祀る神社として成立していたと考えられる。また、『中右記』の天仁2年10月27日(1109年11月28日)条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地に遷祀されていたとされる。
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三山成立以降 [編集]
『長秋記』長承3年2月1日(1134年3月5日)条によると、平安時代後期には三山とも天照大神を含む御子神の五所王子と眷属神の四所明神を加え、現在のような十二所権現を祀る形が整った。しかし那智は別格の滝宮を加えて十三所権現となっており、康暦元年11月13日(1379年12月30日)の『尼性周田地寄進状写』などに記録が残っている。建仁元年10月19日(1201年11月23日)には後鳥羽上皇が那智山に参詣し、その後の1212年(建暦2年)に上皇から寄進され熊野新宮領・190石のうち12石が那智社に与えられた。

承久の乱では後鳥羽上皇らが敗れて熊野は有力な支持者を失ったが、代わって修験道の発達に伴い、三山の御師と先達による組織づくりが盛んとなった。それまでにも仁平元年2月15日(1151年3月11日)の『源義国寄進状写』に那智の御師・高坊の名が記載されている。この他にも御師として熊野別当家の一族や、那智最古の家柄という尊勝院、廊之坊などがあり、それぞれ旦那(檀家)が全国に存在した。貞応2年11月19日(1223年12月19日)には一山が焼失したが、御師らによって再建された。

南北朝時代には、熊野の勢力を勧誘するために両朝から御師宛に護摩供料などの名目で寄進が行なわれ、貞和2年8月18日(1346年9月12日)には熊野三山の検校・道昭准后が、那智山の兵部卿律師御房に駿河国北安東荘内を安堵した例などがある。 続く室町時代には各地の神領荘園からの収入が現状し、那智山権現でも年貢米が駿河国の長田・安東両荘および美作国勝田荘からのみになった。このため、有力御師・先達の活動が重要さを増し、社頭の修理なども熊野山伏や比丘尼、十穀聖などの勧進に頼るようになった。1478年(文明10年)に畿内への課役による棟別銭で那智山の造営を行なったが、弘治年間の十二所権現造営の際は、賦算札に貴庶を勧進結縁させている。

1581年(天正9年)には大名・堀内氏善が那智山への支配を強化した事に反発した御師・塩崎廊之坊が武力決起し、逆に氏善が廊之坊を攻撃した。一方で那智山内の実方院は堀内氏に付いて那智一山は二分され、廊之坊側が敗れると同年6月3日(7月13日)に一族東学坊などの跡職は実方院に与えられた。

慶長6年1月4日(1601年2月6日)の『熊野那智山神領注文写』によると神領は633石余となっている。同年には紀州藩主浅野幸長によって那智山は市野々村と二河村(現・那智勝浦町)に300石を与えられた。寛政10年大晦日(1798年2月16日)に参拝した高遠藩の砲術家・坂本天山は、建造物が荘麗で香炉には火が絶えず、社人・社僧の数が多い事を『紀南遊嚢』に記している。 近世末期の那智大社には数多くの社僧坊舎があり、1873年(明治6年)に県社に指定されるとともに那智神社と称し、さらに熊野夫須美神社と改称した。1921年(大正10年)に官幣中社に昇格して熊野那智神社と改称、最終的に1963年(昭和38年)に熊野那智大社と改称して現在に至る。

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2009年03月16日 14:51に投稿されたエントリーのページです。

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